2016年07月05日
営業活動日記 「インペリアルビル」

皆様、こんにちは。西村友里です。
関内の「古い建物とビル」のご紹介シリーズとして
本日は山下町にございます白色のビル「インペリアルビル」をご紹介させて頂きます。
「インペリアル」(imperial)とは、英語で「帝国の、皇帝の、威厳のある、最上級の」という意。
観光ホテル等でよく「インペリアルルーム」というお部屋がありますが、これはスイートルームを指すことが多く、「最上級のお部屋」という意味です。
また、インペリアルルームの一つ下の階級のお部屋は、「エグゼクティブルーム」=「高級なお部屋」と
呼ばれています。

インぺリアビルは、1930年(昭和5年)に建てられた86年前の建物です。当時は立派なビルだったと思いますが、現在は古さを感じます。
しかし、多くのお客様はこの古さが魅力のようで、弊社に店舗探しでご来店される方の中には、「インペリアルビルのようなビルが良い」と、名指しで店舗探しに来られるお客様も少なくありません。
また、このビル名を挙げられるお客様に共通するのは、個性的でお洒落なお客様が多いことです。
インペリアルビルは、かつての「外国人居留地」に位置しており、外国人専用の長期滞在型
アパートメントホテルでした。

◆「外国人居留地」について
 1858年(安政5年)に結ばれた五カ国修好通商条約に基づき、翌年開港場になった長崎、横浜、函館に 外国人居留地が設置されて以来、日本には横浜、長崎、神戸、大阪、東京の5ヶ所に居留地が生まれ、 函館、新潟の2ヶ所に雑居地が誕生しました。
 1899年(明治32年)に条約改正によって居留地が廃止されるまで、条約を結んだ国の外国人は、 安全が保障され、独自の領事裁判制度のある居留地内や指定された雑居地に居住して、 貿易活動や情報収集活動などに従事しました。
 開国後の日本は、欧米の文化を積極的に受け入れて社会の近代化を急ぎました。
 そんな中において、外国人居留地が先兵として果たした役割は大きく、居留地に暮らしていた異国人は 日本人社会に大きな影響を与えました。
 居留地内やその周辺では、経済活動を始め文化活動が活発に行われ、生活に必要なものが次々と生まれました。
 鉄道、電信、銀行、新聞、印刷、写真、西洋絵画、医療、女子教育、演劇、競馬、射撃、スポーツ、西洋料理店、 クリーニング店、牛肉店、アイスクリーム、ビール、炭酸、歯磨き粉、洋服、自転車、オルガン等、その例は 数え上げるときりがありません。
 居留地の設置場所について、思惑のある幕府の横浜と異国人の要求する神奈川とで当初揉めましたが、 最終的には幕府側の推す横浜に決まりました。
 横浜は幕府の思惑通り、生糸貿易により急速に近代貿易港として発展していきました。
 居留地は当初、現在の山下町一帯が指定されましたが、貿易が盛んになると、居留者の数も次第に増え、 山手まで拡張されていきました。 日本最大の居留地「横浜居留地」には、ホテル、劇場、競馬場などを始め、コミュ ニティーの場として クラブが創設され、様々な職能が集合して、小さいながらもコスモポリタンな居留地社会が形成されました。
 同居留地内に中国人居住地がある特徴を有し、初期には英国、仏国の軍隊が駐留していました。
 (イマジンネット画廊より参照)
インペリアルビルは、2011(平成23)年2月に、横浜市歴史的建造物に認定されました。
昭和初期に横浜で活躍した建築家・川崎鉄三氏が設計、施工主は白井工務店とのことです。
当時最先端のスタイルを試みたモダニズム建築のビルとして、建築史的、技術史的価値が評価されたそうです。
山下公園を散歩しながら、海や景色だけでなく、周辺のビルを見学して歩くのも横浜の歴史を学べるきっかけとなり、楽しいものです。

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