私の最愛の人が
またひとりこの世を去りました
苦しさや屈辱生活から解放されて
こころからよかったと思う反面
生きてさえいてくれればと願った8ヶ月
水曜日の定休日を利用して
毎週火曜日の夜から長野に戻り
横浜と長野を行ったり来たりの生活が続いていました
週を追うごとに弱っていく母の姿を見るのは
つらく切ない日々でしたが
私が支えなければという想いが先に立ち
きつい言葉で母を傷つけてばかりいたことが
今は悔やまれてなりません
女同志、特別何を話す訳でもなく
「何が食べたい?」などの質問が一番多かった気がします
もっといろいろ話せばよかったと後悔しても後の祭りで
涙があふれるばかりです
仕事人間の私にとって
親孝行をするために与えてくれた試練であったと理解しています
今までの何十倍も一緒にいる時間がつくれたのも
私が独立したからできたことであり
歯車が噛み合わなければ難しかったことでしょう
運命に感謝しています
夏休みを楽しみにしていたのに
覚悟はしていたのに
まさか本当に父が迎えに来るとは
13日の迎え盆
深夜2時から3時過ぎまで
母は亡き父と話をしていました
動けない身体だったため、父が枕元に来てくれたのでしょう
大きな声で「お父さん」と呼んでは何かを話し
また「お父さん」と呼んでは何かを話している様子が
1時間以上続きました
神経を集中して耳を逆立てていましたが
隣部屋にいた私には聞きとれませんでした
わかっていたことは
今は母のそばに行ってはいけないこと
父と二人で話をさせてあげなければならないこと
そして、この出来事が何を意味するのか・・
そう、「覚悟をしなさい」ということ
不思議なことに
母の隣で寝ていた弟には
この会話が聞こえておらず何も知りませんでした
晩年はとても仲の良い夫婦でした
母の変わり果てた姿を見て
父はきっと「よく頑張ったね もういいだろう」と言って
天国へ連れて行く約束をしたのでしょう
私自身
母が苦しむ姿をこれ以上見るのが耐えられなくなっていました
お盆に父が迎えに来てくれることを
こころの底では望んでいました
母の病が発覚したときには
仏前で父に怒りをぶつけた私ですが
今は父に感謝しています
翌14日、子供達に見守られて母は静かに旅立ちました
母との思い出は
ずっと私の胸の中で生き続けます
気が強いが寂しがり屋
他人だけでなく、身内にも気を使いすぎる性格
花が大好きで、家中いつも花だらけ
食器が大好きで、料理好き
整理整頓、きれい好き
田舎に住んでいるのに
近所の方々からは「都会の奥様」と呼ばれるほどのお洒落さん
私が横浜から帰る日は
私の好物ばかりを用意して、一緒にお茶を飲むのが楽しみ
そして必ずそのあとに出てくるものは
新しい洋服
嬉しそうに見せびらかしながら
私が「欲しい」というのを待っている
「いいじゃん、欲しいなあ」と言うと
すかさず「明子、欲しいの?お母さん気に入って買ったのに、
仕方がないからあげようかな?」と
無邪気な笑顔を見せながら、すぐに私に洋服をくれる
どう見ても私のために買っていたのはバレバレなのに
母とは性格も容姿もよく似ていると言われます
若いときは、その言葉が嫌な時期がありました
でも今は最高の「褒め言葉」です
75年間、どうもありがとうございました
これからもわがままな娘を見守っていて下さい